変な話題の「変」を決めるのは時代の影響が大きい
先日、母親と電話しておりました。
会話の内容はとりとめのない身内話だったのですが、母があるテーマについてひと言気になることをつぶやいたので、ちょっと考えてしまいました。
森元首相( a.k.a. もりもとしゅしょう)の真央ちゃん発言から始まって、近頃話題のニュースに触れ
「最近は変な話題ばっかりやなぁ」
というひと言でした。
「まぁ確かに少し暗いニュースではあるね」
と応えてその会話は終了しましたが、後々考えると最近だけのことでもないかな?と思いました。
会話の中に出てきた「変な」をあえて、定義するのであれば、ニュース性(GRP やソーシャルでの話題力とか検索数とか記憶力?)が大きくて倫理観としてはマイナスに働いているものがここでいう「変な」でしょうか。
そうなると、高度経済成長期とその後の10年のほうがよっぽど「変な」ニュースがあったように思います。
自分が覚えているニュースはやっぱり多感な時期を過ごしていた時のものになりますが、例を挙げれば
- オウム事件
- 酒鬼薔薇事件
- 東電OL事件
などが強烈な印象を残しております。
もちろん主観の問題でもありますし、事件性に対して規模の判断をすることはできないのですが、いつの時代にも変な話題はあるんだろうなと思います。
となると、ニュースの価値というのは時代のながれで変化しやすく、その時代に合わせたメディアのつきあいかたがまた求められておりますね。
「X+Y」の公式の確立
そんなことを思っていたら、島田紳助(a.k.a.石垣島)の「自己プロデュース力」に書かれている「X+Yの公式の確立」を思い出しましたね。
端的にいえば、「X」は自分の能力、「Y」が世の中の流れ。これでものを考えて芸人としてヒットする道を探れという内容ですが、他にもいいこといっぱい書いてましたよ。
少し話が脱線しましたが、自分たちはいつもその時代の流れの中にいるという感覚とその中だから感じるものが変わるということを理解し、だからこそ定点観測できるツールみたいなものを携えておきたいなと思ったのであります。
今日はすごく雑文でした。