何でもかんでもガラッと変えたほうがいいという発想しかできない人は先人への敬意が少ないのではないかと思ふ
前向きか後ろ向きかと問われれば若干後ろ向きなエントリ。
そっとブラウザを閉じるなら今ですよ。と。
そもそもこんなタイトルのエントリーを書こうと思ったのは、先日たまたまつけたテレビの番組を見て思ったことです。
フジテレビの「全力教室」という番組で、脳科学者の茂木健一郎さんと現的東大生が「勉強しかできないバカにならない方法」というテーマで討論をするというコンテンツです。
ちなみに最後まで読んでも、じゃあお前だったらどうすんのよ?という解決案は恥ずかしながら提示できないので、まーそう思ったんだですぅというお話でございます。
茂木さんが言いたいことは
- 偏差値重視の教育はダメだ
- 世界から見ると東大がガラパゴス化している
- 本当に役立つ頭の良さって何だ!?
みたいなことだったと思います。
で、ハーバード大学を例に挙げて、「ハーバードの入試は面接で決まる。点数じゃない」
という話しがあり、そのことについて東大生に「お前らどう思う?」など、ややぶっきらぼうな言葉で討論しておりました。
番組の筋書きとしては、点数や偏差値主義はダメなんだ。日本の閉塞感はこの偏差値主義の教育も関係があるので、若者よ、もっと自由で斬新なアイデアで社会を良くするチャレンジをしようぜ。というのがあったように思います。
コンテンツとしては、落とし所を最初から用意して議論するということもありだし、筋書きがなかったとしても、そのような主張を持つ大人が子どもをリードすることになるのだからそのような流れになるでしょう。
◆気になったのは2点
まぁ、そんなこんなで飯を食いながらお行儀悪くテレビを見ていたわけなんですが、自分の中で気になったのは2点です。
- 討論をするなら、知識レベル(知性ではなく知識)が同じクラスの人が話さないと意味がないという点
- 偏差値主義=学歴主義の生い立ちについての考え方が整理されていない点
1については別段深堀りしなくてもいいと思うので、割愛します。
そして、2については明治維新による家制度からの脱却が学歴主義につながったというながれを知っておく必要があると思います。
いわゆる民主主義は家柄や出自で差別をしてはいけない、言い換えると実力主義ともいえるかと思います。
出自や家柄で判断しないために、生み出されたのが学歴主義。
つまり、人間を出自で判断しないための方法として生み出されたのが学歴主義という歴史があります。
=勉強ができれば、家柄は問わないよ。とかそういうことです。
そういう意味で、入試の際に使われている採点方式というのは、家柄や出自と関係なく、その瞬間での勝負になるので極めて平等な方式だと思います。
茂木さんが絶賛しているハーバードの入試時に行われる面接での選考というのは人間性やパーソナリティを対象とするので、すごく差別的です。
(「お前ら東大は一番だと思ってるだろ?ハーバードを見てみろ!」みたいな話しがありましたが、それもレッテルじゃねーのとか心の中で突っ込んでました)
アメリカでも大学にはいるには、高校の先生による推薦状が必要であったり、親の状況など極めて主観による「人間性」や「入試までの一定期間や、その人が積み上げてきたもの」に対しての判断軸になるので、いってみれば教師や親に対しての評判を上げることで合格するという何とも差別的な入試方法だとか思います。
だからといって、いまの教育方法が正しいかといえば、そうは思わないんですが、偏差値主義=悪という結論ありきの教育論をよく見かけるので、なぜ偏差値主義がいまの状況になって、どこの部分が問題なのかを踏まえた話しも必要だなーと思った次第であります。
もちろん、専門家の人はそんなの当たり前だよということで、その問題に取り組み、どうすればいいのかみたいな議論は3歩も4歩も進んでいると思いますが、我々一般人が目にする教育に対する議論はいつもそんな話しだなーとか思います。
ちなみに自分、東大出てないっす。
落ち込んだりしますが、いたって普通の自分を恥じることはありません(キリッ